- 野村
- よく覚えているね(笑)。
- 武部
- 当時の私はまだ若手でした(笑)。本来の担当者が休みとなったので、急遽代理で野村さんが所属した銀行を担当したのですが、ところが大荒れ相場・・。初対面初トレードで怒鳴られましたよ、参りました。当時から野村さんは敏腕ディーラーで有名でした。今日はこうした対談に応じていただいたことがとても嬉しいです。
では、さっそくですが、野村さんと為替の出会いについて改めて教えていただけますか。 - 野村
- 大学を卒業して東京銀行に入ったんだけど、最初は別の仕事をしていたんですよ。ニューヨーク支店で中南米に資金を貸し付けする仕事をしていましたね。アルゼンチンとかブラジルとか、リスクの高い地域向けですね(笑)。そういえば、第二パナマ運河をつくるための資金の融資なんていうのも手がけたな。
- 武部
- 最初はディーラーというよりバンカーとしての仕事をしていたんですね。
- 野村
- その後、帰国することが決まったんだけど、急遽、為替をやることになってニューヨーク滞在が半年ほど伸びたんだ。
FXガチンコ対談
為替相場の大きな転機になったプラザ合意。野村雅道氏はその頃から為替の世界を生き抜いてきた。為替取引の現場とはどんな世界なのか、野村氏自身のトレード手法はどういうものなのか、武部が迫った。
- 武部
- はじめて野村さんと出会ったのは、私がまだインターバンク市場のドル円為替ブローカーだった時でしたね。1990年3月31日の東京外国市場インターバンクドル円マーケット(笑)。期末決算で大荒れした東京仲値公示のときでしたから出会いのきっかけとしては最悪の場面でした(笑)
- 武部
- どうして急に?
- 野村
- 当時の上司が為替に向いている人を探していたらしいんだ。上司は突進力のある人を探していて、相撲部出身がいいと思ったらしいが、東京銀行にはいない。そしたら、私がたまたま野球部だったので、相撲部に近いだろう(笑)ということで選ばれたみたいですね。
- 武部
- 確かに突進力はあるかも知れませんね(笑)。為替を始めてみてどうでした?
- 野村
- やってみたら、ばかばか儲かって(笑)。毎日、儲けまくっていたね。
- 武部
- どうしたらそんなに儲かるんですか?
- 野村
- 貸し付けの仕事でリスクの高い地域を相手にしていたから、ニュースを見ていると、不良債権の裏事情とかすぐわかっちゃうんだね。だから、為替の動きも予測できる。
- 武部
- 貸し付けの仕事がベースになっているんですね。ところで、東京に戻ったのは?
- 野村
- 85年の3月。プラザ合意の年だね。プラザ合意は、G5によって発表された為替レートの安定化に対する合意ですが、G5が開催されるということ自体、誰にも知らされていなかったんだよね。だから、当時の竹下大蔵大臣は、誰にも知らずに出席するためにずいぶん苦労したらしい。ゴルフの格好で家を出て、わざわざ成田の近くのゴルフ場でハーフをやってから飛行機に乗るという念の入れようだったそうです。
- 武部
- プラザ合意というのは、要はG5 (日・米・英・独・仏)がドル安に向けて協調行動をした、ということですよね。
- 野村
- プラザ合意は9月22日で翌日がちょうど秋分の日で祭日。休みなのに会社に呼び出されたんだよ。そしたら、日銀の課長がやってきて「明日からドルを売ってください」と。プラザ合意の声明をわざわざ持ってきて、協力してくださいと言ったんだね。だから、その日からドルを売ったよ。東京銀行以外の銀行は翌日、日本橋三越のライオンの前に呼び出されて声明文を渡されたらしいけどね。
- 武部
- 当時は1ドル=235円くらいだったと思いますが、そこから一気にドル安になりましたよね。
- 野村
- みんな「このままじゃ200円を切るかもしれない」なんてうわさしていたけど、年末にあっさり200円を割ってしまった。そこからは一気に150円くらいまで下がったね。
- 武部
- そのころはぜんぜん寝てないんじゃないですか。
- 野村
- そんなことはないけど、休日出勤はよくしていたね。あるとき日曜日に出勤したら、顧客からの電話を示すランプが光っているんだよ。まあ、日曜日だから出る必要もないんだけど、出てみた。そしたら、ドルを100本(1本=100万ドル)売ってくれっていうんだ。
- 武部
- どうしたんですか?
- 野村
- 売ったよ(笑)。
- 武部
- 日本のマーケットは開いていませんよね?
- 野村
- バーレーンに支店があったので「ドル100本売れる?」って電話したら「難しいけど、なんとかできる」っていうから、売ったよ。そのころは毎年40円くらい円高になっていたから、誰でも儲かる。いくらで売るとか関係ない。とにかく売っておけば儲かる状態。その後、86年に就任した宮沢大蔵大臣がこのままでは日本が危ないと、「金に糸目をつけずにドル買い介入する」と言ったけど、円高の流れは変わらなかった。結局、1ドル=120円くらいまで下がってしまったから日銀が金利を下げたんだ。それが87年でバブルの始まりだよね。
- 武部
- そのころは外銀もどんどん日本に参入してきましたね。
- 野村
- 外銀が参入してくるまでは、のんびりしていたよね。だってマーケットは9時から15時半までしか開いていないから、ブローカーはその後、することがないでしょ。それでパチンコやって家を建てた人もいたよ(笑)。
- 武部
- 外銀がどんどん参入してきて状況が変わりましたけどね。野村さんも87年に外銀に移られていますよね。
- 野村
- 東京銀行だけでも100人くらい辞めたんじゃないかなあ。
- 武部
- そうすると外銀といっても知っている人ばかりという感じですね。
- 野村
- ひとつの外銀に東京銀行出身者が5人もいることがあったね。でも、最初はみんな外銀に移るのが怖かったんだよ。
- 武部
- 外資系はすぐにクビを切るとか言われますからね。
- 野村
- でも、先に外銀に移った同僚を見ていると、なんだかいい暮らししている。それを見て、みんな移ったんだね。そのいい暮らしも10年くらいしか続かなかったけど。
- 武部
- それにしても100人とはずいぶん辞めましたね。
- 野村
- 東京銀行はめちゃくちゃ給料が安かったからね。まあ国内ではそれほど変わらなかったけど、海外に行くとずいぶん安い。なぜかというと、ほかの銀行はニューヨーク支店といっても10人くらいしかいない。でも東京銀行は100人くらいいるわけ。そんなに人数いたら特別待遇できないよね。だから海外に行くとお金がなくなる。不満を持っている人が多かったのは事実だね。
- 武部
- 実際に外銀に移ってどうでしたか?
- 野村
- 給料は2倍か3倍くらいにはなったよ。福利厚生もいいし。
- 武部
- でも給料が上がれば利益を出す目標金額も上がったんじゃないですか。
- 野村
- それが逆なんだよ。東京銀行が毎月5億円儲けなければいけないとすると、外銀の場合は1億円くらいでよかったね。おまけに東京銀行では5億円稼いでも10億円稼いでも何もないけど、外銀だと3%~5%の報酬がもらえるから。それは大きい。
- 武部
- 目標が5分の1なのに給料が2倍というのはすごいですね。
- 野村
- その後もいくつかの外銀に移ったけど、移るたびに給料は上がって目標は下がったね(笑)。
- 武部
- いいですね(笑)。そんな野村さんにもピンチってありましたか?
- 野村
- ピンチねえ。あまり記憶にないなあ。でも、そういえば、最大のピンチがあったよ。
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